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あいすまん

あいすまん

きねこむ(小説)

きねこむ

宮城隆尋


掃き溜めでビールを飲みながらキノコをかじっていたわたしは、極めてこじんまりとした素人感まる出しのコピーバンド
の演奏にうんざりしてPAに「あと何曲?」ときいたのであるが、クソだり?感むき出しで適当にボタンをいじり回しながら
P・Aは「知るかよ。二、三曲じゃねえの?」などと応えやがるのであり、もう沢山であったわたしは「もういいよ。一曲に
しろよ。」と言ったのである。すると「だったら帰れ。」などともっともなことを言われてしまい、わたしは帰らざるを得なく
なった。日頃のストレスを発散しにきた聴衆はいまいちのりきれずにむかつき始め、そのむかつきを吐き出すために
全く音を無視して暴れだしたのであり、バラードであるにもかかわらず縦にのり始めたり、小刻みに頭を振りながら殴り
あったりバックドロップをかけあったり、全裸になって人の海にダイブしたり、マイクを奪って「ファック!」と絶叫したりマ
イクスタンドでボーカルを殴り回したりしていて、わたしは泣きながら逃げ出していく人や血にまみれて群衆からはじき
出された人を避けつつ極悪なライブハウスから帰途に就いたのである。
わたしはいつも夢を捜しているのであるが、いつも白昼夢しか見つからないのであって、それはわたしが酒やキノコに
溺れているせいなのかも知れないが、今日はとりあえずライブハウスに行ってみたのである。しかしそこは極悪であっ
てやっぱり夢などなく、わたしは焼酎を梅で割ったジュースを飲みながら「にょほほー」と呟きつつふらふらと家へ向かう
途中、電柱の根元でトフンタケをむしってむしゃむしゃ食い、家の布団で寝たのであるが、腹にきた。激痛に悶絶昏倒
して血反吐を部屋中に撒き散らしながらうううううってうなっていたのであるが、病院へ行く金などなかったため、蝿の飛
び回る天井を見ながら気絶したのである。巨大化した蝿がわたしに怒鳴っている幻覚を見ながら。
目をさますと腹の痛みは引いていて、食中毒は治ったらしいのだが栄養失調気味なのか視界がはっきりせず、まるで
もやの中、霧の中だ。トフンタケを口にしてから気絶していた時間ははっきりしないが、痛みが引いているということは
食中毒が治っているということであり、即ちキノコの作用などとっくの昔に消えているはずである。しかし何だ?目の前
にまだいる巨大な蝿は。
やつれて骨と皮になったわたしが起き上がるのを見て、蝿は怒鳴り始めた。何やら喚き散らしているのだが、何を言っ
ているのかさっぱりわからない。人差し指を立ててわたしに何か説教をしている様であった。あぐらをかいてわたしを見
据え轟音を口から発して、わたしに何か怒鳴っている蝿。蝿ははたして説教をする動物であっただろうか。
わたしは階段から落ちた。いつまでも人語といえぬ蝿の説教を聞いて脳を揺さ振らせているわけにもいかぬので食
料、というかキノコを採りに出掛けたのであり、蝿が怒声をさらに荒げ立ち上がって玄関に歩くわたしに床を指差して何
か絶叫していたのを無視してわたしは家を出たのであるが足元がふらふらとし、目の前の景色がぐにょぐにょとうねっ
て小人が沢山飛んでいたため階段を踏み外してしまい、一気にコンクリートの地面までぶち落ちたのであった。見事に
脳天から落下したわたしは流出した生暖かい液体の上に横たわり、また気絶してしまいそうになったが、近所の小学
生が通りがかったため意識を踏みとどまらせ、救急車を呼んでほしい旨を訴えようとした。しかしわたしの口から発せ
られる音声は「あえ、あう、うおうお、ぐぼぼ」などとわたしの意思を無視した言動であり、わたしの訴えをちっとも理解し
得ない小学生は落ちていた木の枝で血の流れだすわたしの頭をつんつんとつつき始め、「げええ、汚い。うんこみた
い。」などと好き勝手なことを吐かし、一通りつつき回した後どこかへ去ってしまった。わたしは再び世の中に絶望し
た。もう何度絶望したかわからぬが、ついにわたしはこんな冷たいコンクリートの上で果てるのか。こんなことなら毎日
キノコばかり食って堕落して過ごすのではなくもっと有意義な人生を送りたかった。蝿に説教されて死ぬなんて、今の
わたしにはお似合いだなあ。




緑の草原でわたしは妻と二人、手をつないで走った。微笑み合って暖かな陽が照らし、いつまでも幸福だった。いつま
でも二人で幸せだった。
わたしは気が付くと土を食っていた。階段の下の血の海から無意識に這いずり出し、小さな花壇の雑草と土をむさぼり
食っていた。わたしはどうしても死にたくなかったが、目の前はまたしてもぼやけてきた。再び草原に瞬間移動してしま
いそうになったが、そんな幻想に落ちていたら死んでしまう。今は何か食べなければ。そして願わくばこの頭の傷を治
療せねば。しかしやはり血は多量に流れ出ており、目の前には草原が見えはじめた。花壇の中に草原があって妻が
蝿で小人と二人幸せだった。サイレンの音が聞こえた。
父親と母親と妹がわたしを忘れて心中してから二日後、いたたまれなくなったわたしはその場所その時その自分が嫌
になって、親戚の家から逃げ出した。出掛けたのではなくて逃げ出したのであって、目的地の無いわたしは一通り街を
走り回った後、疲れて公園の便所で寝た。その後一週間そこで暮らした。便所はいつでも好きな時に用が足せるので
便利ではあったが、飯に困った。便所のゴミ箱はさすがにティッシュやトイレットペーパー、マンガ、ビニール袋、コンド
ーム、反吐やタン、大便などが捨ててあってとても飯など出てこない。そのためコンビニエンスストアやゲームセンタ
ー、ファーストフード店の裏にあるゴミ箱を廻って飯を集め、日々食い物にありつけたりありつけなかったりしていた。し
かし五日もたつと、風呂に入っていない便所生活者ならではのとてつもない異臭をわたしの体が発し始め、街を歩いて
いても通りすがる全ての人が顔をしかめ鼻をつまみ眩暈を覚え、「何かクサくねえ?」「うわっくさっ」「コイツやべえ臭え
ぞ」などと騒ぐ者が出始める始末。わたしはいよいよ精神的に荒み切ってしまい、無料で配布していた銀行名の入った
うちわをばたばたと大袈裟に扇ぎ、わたしの異臭を街中に意図的にばらまき始めた。七日目にはエスカレートしていよ
いよ生ゴミの詰まったゴミ袋を持ち歩き、ぼりぼりと頭を掻いてフケを撒き散らしつつかあああっとやってタンを飛ばし、
変な目で見る奴らに向かって突如駆け寄って驚かしたりしていた。その晩、驚かそうと駆け寄った相手が驚く様子もな
くわたしを見ているので、悔しくなって思わず逃げ出そうとしたのであるが、そいつは突然「お前、何してんの?」と訊い
たのである。わたしに。はて、わたしは何をしているのだろう、と考えつつよく見るとその男は高校時代比較的仲の良
かった池田であり、卒業以来の再会の喜びと共に浮浪しているわたしの現状に恥ずかしさが込み上げ、ひきつった笑
いで 「やあ。」などと挨拶をしてしまったのだった。
わたしがことここに至るまでのいきさつを池田に顔面が発火しそうになりながら打ち明けると、池田は「俺の家に来い
よ」と言い、わたしの仕事と住む場所が決まるまで池田のアパートに一緒に住まわせてもらうこととなった。わたしは有
り難い限りで涙を流し、毎日雨風をしのげることとなり、必死でアルバイトを探し、池田はたまに女を連れてくることもあ
ったが、快く朝まで外で待ち、時には二人で部屋を探したりして一週間経った頃、ようやくコンビニエンスストアの深夜
アルバイトとわたしの住むアパートが決まった。アパートは四畳半一間で家賃三万五千円であった。敷金十万円を池
田から借り、わたしは涙を流して感謝した。わたしはこれで社会復帰することができる。わたしは改心した。もう二度と
世捨て人にはならない。異臭も撒き散らさない。わたしは改心した。




 目を覚ますと見慣れない天井があり、わたしは白いベッドの上に寝ていた。どうやら病院のようであった。壁には薬
局の名前の入った日めくり式のカレンダーがあり、赤い字で8と大書きされていて、その上に8月と小さく記されてい
た。池田に救われて改心した日から、もう二ヵ月か。いや、まだ二ヵ月なのだ。たった二ヵ月でわたしはアルバイトを度
重なる遅刻でクビになり、家賃を滞納して飯も買えず、毎日キノコをむしって来ては部屋で幻覚へ逃避し、居もしない妻
と幸せになって蝿に怒鳴られ、階段から落ちて死にぞこなったのだ。
わたしは飛び起きた。回想している場合ではなかった。ここは病院であり、わたしの頭には包帯が巻かれている。とい
うことは、身元の定かでないわたしを手術するにあたっていろいろと調べたに違いない。血液を調べ、キノコの成分が
発見されているかもしれない。明朝突然病室に警官数名を引き連れたコート姿のベテラン刑事が訪れわたしの目の前
に白い紙を突き付けて「これは逮捕状だ。お前の血液中からシロシンとシロシビンが検出された。薬事法違反によって
懲役五年、ええい面倒臭い、今ここで死刑だ!」などとエキサイトして発砲。結果、わたしは頭を撃ち抜かれて死亡。直
後、霊安室に運ばれてカルテに「心筋梗塞」などと嘘を書かれ、事実をもみ消されてしまうに違いない。その様な愚劣
な行為がまかり通ってはならぬのであり、わたしのとるべき行動は一刻も早くこの場から逃げ出すこと、それ以外に考
えられなかった。
またもやわたしは世の中に絶望した。というのは、便所に窓が無いのである。逃げ出すとは言っても正面玄関から
堂々と脱出しては、ロビーのそこら中を歩き回っている看護婦に呼び止められ、「あなたその服からしてさては脱走患
者ね。逃がしはしないわよさあ来なさい。」などと阻止されることは目に見えているのであり、わたしは便所に行くふりを
してそのまま窓から脱出してしまえばいい、と思いついたのである。思い立ったが吉日とばかりに「小便、小便」などと
呟きつつ便所に駆け込み、早速窓を開けようとしたのであるが、あろうことか窓が無いのだ。窓の無い便所など言語
道断、便所にあるまじき醜態だ。臭いがこもるではないか。換気扇があるとしても窓を全開にして風を引き込んだ際と
の換気能力の差は歴然としているのであり、もしこの便所で複数の食中毒患者が同時に用を足した場合、異臭騒ぎを
誘発し人々をパニックに陥れ、全ての便所が封鎖されると同時に自衛隊の特殊処理班が出動。その際用を足してい
た三人が実行犯として無実の罪を着せられ、冤罪を訴えて控訴、上告を繰り返し十余年の闘争の末あやふやな執行
猶予で決着し、 「裁判に費やした私の人生を返せ」と喚き出すのは目に見えているではないか。全く、社会の不条理
を生み出すこの便所はまさに悪だ。悪の根源だ。と怒りつつわたしは他の便所を探して廊下を歩き回ったのだが階段
にたどり着き、そこに「4」という数字が記されているのを見て納得した。ここは四階であったのか。成程。窓から出よう
と思っても高すぎて落ちて死んでしまうではないか。そうか。ここは病院であり、不治の病や一生治らない大怪我を負っ
て人生に絶望し、自殺を志願する者が絶えない状態が日常であって、四階などという高い場所に窓を設置するというこ
とは自殺志願者に自殺場所を提供するようなものであり、窓の無い便所というのは理にかなっているではないか。世
の中うまくできているものだ。わたしは三階の便所に入った。窓は無い。やはり三階という高さも危険であるのか。成
程。わたしは二階の便所に入った。窓は無い。二階も地上三メートル以上はあり、やはり頭から落ちれば危険ともいえ
る。しかし高さに比例して窓が無いというわたしの理論は、はたして正確であろうか。もし一階にも窓が無ければわたし
はどうやって脱出すれば良いのだ。大人しく諦めて明朝刑事に射殺され、病院ぐるみで隠蔽されるしかないのか。嫌
だ。それだけはどうしても嫌であってわたしはまだ人生に成功していない。まだ死ねない。死んではいけないのだ。わ
たしは焦燥が強迫観念となり、全速力で便所から駆け出し階段を転げ落ち一階の便所に飛び込んだ。窓は無かった。
やはり。わたしは世の中に絶望した。この便所には悪意が感じられる。一般的に窓は便器と同等に便所の一部であ
り、あるはずなのであるが、無い。わたしはまたもや悪意に妨げられている。何者かがわたしを逃がすまいとして事前
に窓をコンクリートで埋めたのだ。その証拠に壁の上部にある窓ではない数センチメートル四方の空気も通らぬ通風
口らしき穴がわたしをせせら笑っている。きっとわたしはあの穴に頭を突っ込んで脱出を試みて首の辺りでつまって抜
け出せなくなり、うがが、ともがいていると誰かが後ろからわたしの尻をつつき、見つかった、とあわててあたふたして
いる様を外の通行人は横目で見つつ「やあね、何かしら。」「暖かくなると増えてくるのよね。」などと哀れみ、赤面した
わたしは恥ずかしさのあまり絶叫し、通報で駆け付けた臆病な警官をびっくりさせてしまい射殺されて、穴にはまったま
ま果てるのだ。こんな悪意に満ちた世の中に呑まれ、悪意に押し潰されてわたしは果てたくはない。不幸なまま死にた
くはないのだ。わたしは世の中に充満した悪意の強大さを目のあたりにし、打開策を模索し始めたが、なぜだか悲しく
なるばかりで「わたしは諦めない!」「わたしは諦めない!」と絶叫しながら鏡を殴りつけて破壊し、落ちた硝子の破片
を握りコンクリートの壁をがりがりと削り始めた。しかし壁には傷ひとつつかず硝子を握り締めた手から血がだらだらと
流れ落ちるばかりで、わたしはついに騒ぎを聞き付けた看護婦に羽交い締めにされ壁から引き剥がされた。壁に窓は
無い。だからわたしは窓を作るのだ。わたしの邪魔をするな。わたしは悪意の中で果てはしない。わたしは窓を作るの
だ。





退院したわたしは帰り道に猫を拾った。猫は夢を抱いている。猫には夢がある。
血まみれの便所で取り押さえられたわたしは、医者と看護婦数人に引き摺られながら尚も抵抗し藻掻き暴れ続け言葉
にならぬ叫びをあげたりしたが、肘の内側に軽い痛みを覚えた瞬間から意識が遠退き、草原に瞬間移動した。

気が付くとわたしはまたもベッドに横たわっており、両手に包帯が巻かれていて肘の内側には四角い絆創膏、傍らに
は医者が立っていた。わたしが目覚めたことに気付いた医者は何やら書類のようなものに筆を走らせながら、わたし
を見もせずに「退院だ。」と一言呟いた。鉛のように重い体を起こしてゆっくりと立ち上がり、目の前は何だか色々なも
のが傾いたり歪んだり勝手気侭な形をしていて、窓や壁やドアや医者の頭が平行四辺形だったり台形だったり二等辺
三角形だったりしていたのだが、とりあえず元々そういう形なのかわたしの目および頭がおかしいだけだろうということ
で納得しておくことにして、わたしは病室の出口へと急いだ。おぼつかない足取りで出て行こうとするわたしを医者は見
向きもせずに書
類を書くことに没頭している様子で、わたしはわけがわからなかったが、医者の気が変わらぬうちに外へ出なければ、
とふらふら焦った。
一人残らず忙しそうにあちこち走り回っている看護婦達はし瓶を運んだりし瓶を運んだりし瓶を運んだりしていて、わた
しに「お大事に」の一言も言い出す者がいないのでどきどきと冷や汗をかきながら正面玄関から歩いて退院したのだ
が誰も阻止しようとはしないのでやはりわたしは退院であるのだ。確信した瞬間頭上の空は青く広がり、わたしは深呼
吸をした。清々しい気分で思い切り吸い込んだ空気はその瞬間目の前を猛スピードで通過した大型トラックのどす黒
い排気
ガスであり、俄に一酸化炭素中毒を起こしたわたしはがん、がんと脳内を乱打する激痛と共に意識が遠退き、目の前
の道路がジェットコースターの線路のように歪んで勢い良く地面に倒れこんだ。大勢の通行人は誰一人倒れるわたし
に見向きもせず無関心に通り過ぎて行ったが、一匹の猫が街路樹の根元の草場からわたしの顔を直視し
ていた。近寄っては来なかったが、その猫はわたしを見ていた。排気ガスに満ち満ちて焦茶色に霞んだ空気の中で、
その猫には確実にわたしが見えていた。わたしは言うことを利かない己の足を殴り付けて立ち上がり、よたよたと歩い
ていって歩道のゴミ箱を漁った。空缶やお菓子の空き箱、ティッシュペーパーの塊や煙草
の吸い殻、吐き捨てられたガムや反吐やタンやコンドームや大小便に混じって食べかけの弁当が埋まっていた。そこ
から黴の生えていないチキンの欠片を取り出し、たかっている蟻や蝿をはたき落として地面に転がした。すると先程の
猫が鼻をひくひくさせながら恐る恐る近寄って来てその肉を啣え、少し離れた場所に持って行ってわたしに警戒しつつ
食べた。わたしは終始猫の挙動に注目していたのだが、猫は食べながらちらちらとわたしを警戒した。猫にはまだわ
たしが見えているようだった。わたしは再びゴミ箱を漁り、食べられそうなものを手当たり次第に地面に転がしたが、そ
の度に猫は食べたり食べなかったりしながらわたしを警戒していた。わたしは猫を持って帰ることにした。家に猫が居
ればキノコで幻覚へ逃避する必要がなくなるかもしれない。これまでわたしが家に居続けて堕落してしまったのは、家
に猫が居なかったからだ。生活には猫が必要なのだ。心が荒まないために、希望を持ち続けていられるように、わたし
は猫の力を借りよう。少し前、池田の世話で見つけたアルバイトを真面目に続けていた頃、老人に会った。その老人
が言うには「夢が絶望したら破綻は人生の懺悔じゃない。」と。その時はとても自分のおかれた状況に対処し切れずに
聴いていなかったのであり、今でも全く意味は不明なのだが、兎に角夢が大切だということなのだ。そうだ。夢が輝き
続ける限り生活も輝く。夢を見出だすには世の中に、人生に希望を捨てないことだ。そしてそのために猫が必要なの
だ。猫がもたらす生活への希望。堕落することはないしキノコを食うこともない。わたしは夢を大事にする。猫を大事に
する。




 その頃わたしは、コンビニエンスストアの深夜アルバイトをまだ続けており、毎日インスタントラーメン一個と勤務帰り
に持ち帰る賞味期限切れの処分用弁当一食という切り詰めた生活の末、貯め込んだお金があった。一日の食費が八
十円で、月二千四百円。家賃三万五千円で光熱費、水道代、ガス代その他雑費を差し引いて残った四万七千八百五
十五円を、池田から借りたアパート敷金のローンとして返済するため、池田と駅前駐車場で待ち合わせをした。池田は
以前の土手沿いの四畳半アパートから、駅前の分譲マンションへ引っ越したそうであったが、詳しい場所は面倒臭が
って教えたがらないので、わたしは仕方なく待ち合わせの案を提示、合意に至り、「んじゃあ明日の午前十時に駅前の
駐車場で」と言って電話を切ったのが昨夜二時。わたしは寝坊すらしなかった。

 既にわたしは発狂寸前なのであって、視線の集中砲火を浴びながら頭を抱えてうずくまり、がたがたと震え冷や汗を
垂らし、時には「窮地!」「絶望!」と絶叫したりして己の運命を呪ったのである。
 七時間も待っていたのだ、わたしは。にもかかわらず来ないからだ、池田が。常日頃からカルシウムといわず栄養全
般が欠乏しているうえ何事にも失敗続きの自分には、うしろめたさからの強迫観念がある。何かにつけて追い詰めら
れている錯覚を起こしがちで、待つことをあまり得意としないわたし。いらいらするのだ。そわそわするのだ。待つこと
に費やしている時間など、わたしには残されていないのではないか。こんなことをしている間に、わたしは人生のチャン
スを逃しているのではないか。逃してきたのではないか。そんなわたしが七時間も待ったのに、やって来たのは池田で
も人生のチャンスでもなく、原動機付自転車に二人乗りをした青年達であった。脱色しすぎてぼさぼさの白髪になった
らしき頭に、骨ばった顔つきののっぽな男と、赤い髪を脳天付近で三つ編みにした屈強な体つきの男の二人組みが、
わたしの佇む駐車場にふらふらと突っ込んできたのである。わたしは颯爽と避けた。筈であったが、ふらふらと進行方
向のはっきりせぬ原付を避けきれず、左右の爪先を轢かれた。激痛に悶絶昏倒するわたしを尻目に、二人乗りは駐
車場に駐輪してあった原付や普通二輪や大型二輪やオート三輪を次々となぎ倒し、その先に駐車してある黒塗りのベ
ンツに激突して漸く停止したのである。
 これは一大事だ。二人の若者は自分たちの犯してしまった野蛮な所業に、はた、と気付き、恐れ戦いて腰を抜かし、
失禁しながらあわ、あわわ、と這う這うの体となって逃げ出すに違いない。と思いきや二人組みはへらへらとしまりのな
い顔で「倒れてるぜ、おい」「倒れてるよ、おい」「へこんでるぜ、おい」「へこんでるよ、おい」「ぎゃははっ倒れてるぜっ」
「げひひっへこんでるぜっ」などと盛り上がり始め、己を省みる気など毛頭ない様子でハンドルとミラーの折れた原付に
再び二人乗りし、柄の悪い笑い声を辺りに撒き散らしたのであり、「げはははははげはげはげぶっうぼおえええええろ
えろえろ」などと酒臭い嘔吐物を吐き散らしながらよろよろと走り去っていったのであった。わたしは激痛にのた打ち回
りながら一部始終を見ていたのであるが、見ていただけであったのだ。池田を待っていただけなのだ。この時点まで
は。
 事態は一変した。わたしは轢かれた足の激痛に悶絶し、全開にした口から涎を垂らして痛がり、時には「苦痛!」「苦
悶!」などと絶叫して周囲の視線を独り占めしていたのであるが、いくら耐え難い痛みであってもやはり痛がるにも程
があるのである。わたしは落ち着くために煙草を一本吹かした。ええい、らちがあかぬ、と五本吹かした。ややあって
目の前の景色が歪んできて嘔吐を催したが足の痛みは引き、わたしは落ち着きを取り戻した。頭がしびれて音が聞こ
えなくなり、目の前の通行人が道を歩いたり壁を歩いたりしていたのだが、わたしは極めて落ち着いた精神状態で背
後の壁に凭れて座り込み、両手足を四方に投げ出して目を見開き、口から涎を垂らして正常を取り戻したのである。し
かし少々危険であることに気付いた。先ほどの酔っ払い二人乗りに横転させられた十数台の二輪及び三輪は、辺りに
こまごまとした部品や車体の破片を飛び散らせていたのだが、それにとどまらず、何やら燃料らしき液体までもどくどく
と流出しているのであり、その流れは明らかにわたしの場所へと向かっているのである。このままではいずれガソリン
がわたしの足元まで到達し、わたしの靴から靴下、ズボンから上着へと付着浸透してゆくに違いないのであり、ゆくゆく
は口に咥えている五本の煙草に引火してわたしは火達磨となり、路上で業火にのたうち転げ回る破目になるのであっ
て、それは極めてやばいのである。と、わたしは流れる燃料を避けつつ転倒している二輪の傍まで行き、これ以上流
出せぬよう車体を起こしたのであるが、それを見ていた通行人の一人が突然ダッシュでわたしの元に駆け寄ったので
あり、わたしは吹っ飛んだのである。通行人は助走をつけてわたしの頬に拳をぶち当て、「なにさらしとんじゃ、ぼけ」と
怒鳴ったのであり、吹っ飛びながらわたしは、それはこっちの科白だ、と言いたかったのである。どこからどう見てもま
さにこっちの科白なのであって、訴訟を起こしてもこっちの科白である旨の判決が下るに違いないというほどこっちの
科白であることの正当性は疑い得ないのであるが、口に出せない。その通行人の顔は、縦横無尽に走った縫い傷が
顔中を埋め尽くしており、わたしは背筋に悪寒が走るほど戦慄したのであって、とてもそんなことは言えない。その縫い
傷男は、真っ赤な顔をしてわたしの起こした二輪を蹴り倒し、その他の転倒している二輪をひととおり蹴りまわして三輪
のサイドミラーをもぎ取ってそれでフロントガラスを叩き割った後、へこんだ黒いベンツの車体をばん、ばんと平手で叩
きながら数分間にわたって何やら絶叫を繰り返し、わたしに身元を尋ねたのである。わたしはそんな質問よりも、この
男の理不尽な振る舞いに極めて納得がいかず、なぜ転倒した二輪を起こし、ガソリンの流出を防いでいたわたしの善
行に、見返りとして暴力なのか。何故わたしは今殴られ、怒鳴られているのか。所詮正直者は馬鹿を見るのか。善行
の見返りは殴打か。などと頭の中は次々と浮かび上がる不条理な現実に対する疑問でごちゃごちゃになり「あんた、
誰?」と訊いたのである。すると縫い傷男は今までの怒鳴り声を凌駕するほどけたたましく絶叫すると、同時に懐から
おもむろに拳銃を取り出してわたしに向かって発砲したのである。大腿を撃ち抜かれてあまりの激痛に声も出ないわ
たしを尻目に、発狂した縫い傷男はそこら中にばん、ばんと見境いなく発砲しながら雄叫びを上げて走り去っていった
のであった。
 へこんで歪んだ車体とガソリンの中にとり残されたわたしは、足から大量の血を流しながら地面を転がり、落ちた煙
草の火が地面に広がるガソリンに引火して一瞬のうちに業火の地獄と化した駐車場で、「いたた、あちあち」などと間
抜けな声をあげて泣いた。火は数分後に駆けつけた消防車によって消化されたが、わたしは悪意に殺されるところで
あった。一連の不幸は、何者かの悪意によって仕組まれたものに違いない。計画的に池田は待ち合わせをすっぽか
し、計画的に酔った二人乗りが二輪を横転させガソリンをこぼし、最後に縫い傷男が発狂して発砲して発火。そうでな
ければここまでわたし一人に災難が降りかかることなどあり得ないのだ。またも悪意がわたしを絶望させようと企んで
いるのだ。
 突然目の前に汚らしい身なりの老人が立っており、「夢が人生の懺悔なら絶望は絶叫じゃない」か何かを言ってすた
すたと歩いて去った。何であるのか。わたしは、またも悪意の手先か、と身構えたのであるが、老人は見るからにただ
のホームレスであり、且つもう去ってしまったため、まあいいか、と再び悲しみに明け暮れ、それ以来アルバイトへも行
かず、悪意の思惑通りになどなるものか、と家に閉じ篭って災難に警戒しつつ次第に荒んだ精神と荒んだ生活を忘れ
るためキノコばかり食い始めたのであった。

(続く)



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